ボーダーレス 伊江島の78年
[ボーダーレス 伊江島の78年]
死者を想定・住民は「敵」…1955年沖縄伊江島の土地接収、命令書で判明した米軍の視点
「銃剣とブルドーザー」の象徴として知られる伊江島の土地接収に、米軍が着手したのは55年3月11日。命令書は3日前の8日付で発行された。
命令書は射爆撃場の拡張のため周辺住民を立ち退かせる計画が反対に遭った経緯を説明。「混乱が発生し、米国の施設、装備、人員を保全するため軍事力が必要になった」と記している。
「反対派」として阿波根昌鴻さんら住民3人を名指しした。諜報(ちょうほう)部隊のCICも同行させ「住民の首謀者」「島外からの参加者」などの情報を収集するよう命じた。
派遣部隊の中核はライフルで武装した歩兵。「隊長が必要と判断するときは催涙ガスや小火器も使用できる」と明記した。
死者が出ることにも備えており、米兵が死亡した場合は「可能な限り速やかに(沖縄本島の)陸軍病院に移送する」、住民の場合は「人物を特定した後、村長か警察責任者に引き渡す」と定めた。
土地強奪の実態が報じられることへの警戒もうかがえる。メディアを立ち入らせないことや、「実力行使をしている間、兵士はなるべく住民に写真を撮られないようにする」ことも指示している。
阿波根さんが残した詳細な記録によると、3月11日に米兵が上陸。接収地を鉄条網で囲うなどした後、14日に家屋13戸に火を付け、ブルドーザーで押し倒した。死者は出なかったものの、米兵は住民に銃剣を突き付け、殴る蹴るの暴行を働いた。
作戦命令書は嘉手納基地を管理していた米空軍第313航空師団の年次報告に参考文献として添付されている。琉球大学の我部政明名誉教授が90年代、米アラバマ州の空軍歴史研究所で入手し、保管していた。2021年から、同大学島嶼(とうしょ)地域科学研究所のウェブサイトで公開されている。
【専門家の見方】米軍文書 報道統制の意図
鳥山淳琉球大学教授
伊江島の土地接収は住民側の記録が残っているが、米軍側の作戦命令書は初めて見た。住民が生活のため立ち退きに反対していることに一切関心を払わず、暴動として扱い、鎮圧しようとしている。現場で住民を殴ったり蹴ったりするような暴力がなぜ起きたのかが理解できる。
「報道機関を制限区域に立ち入らせない」という記述からは、メディアコントロールの意図も分かる。接収のありのままの姿が伝わっては困るという認識はあったのだろう。
住民のリーダー阿波根昌鴻さんらは「陳情規定」で米軍に相対する際、手を耳より上に上げない、などと決めた。紳士的、理想主義的な振る舞いというより、現実的に身を守る必要があったことも、この文書から読み取れる。暴徒と見なされれば、武器使用の理由を与える危険性があった。
米軍は、伊江島の土地を軍用地に指定していたから必要になればいつでも住民を立ち退かせて土地を使う権利があると主張している。仮にその通りだとしても、土地の使用条件が住民に正確に伝わっていたとは思えない。ずさんな軍用地行政の実態を解明する必要がある。
伊江島の土地接収に関しては、真謝の人々の記録も残っている。米軍文書を検証し、住民側の記録と突き合わせる意義は大きい。(談、沖縄現代史)